107)7. 国際英語の学び方: 2007年6月アーカイブ

最近の英語教材の傾向として、「国際語としての英語を教えよう」というのがあります。

昔は確かに以前は英語は英語を母国語としない人々が英語を母国語をする人達とコミュニケーションをする為のものと考えられていました。英語はイギリス文化や、アメリカ文化と結びついており、英語を話す時はネイティブスピーカーのやり方に合わせるべきだというのが一般でした。

しかし現在では英語は世界中の人々が互いにコミュニケーションするための国際語として考えられるようになってきました。すなわち英語を母国語としない人々同士がコミュニケーションするために英語を使うようになってきているのです。こうしたことを背景にしてテキストの内容にもいくつかの変化が出てきています。

まずテキストに登場する人物が変わりました。昔はアメリカ人やイギリス人の名前がほとんどでしたが、今では世界中の人が登場します。中国人、日本人、マレーシア人、タイ人などの他、イラン人、ケニア人、インド人、ロシア人など過去には見られなかった名前が多数出てきます。

内容も昔はアメリカ文化やイギリス文化をあつかったものがほとんどでしたが今では世界各地の風俗習慣がとりあげられています。

私は英語を母国語としない人々同士がコミュニケーションするのに必ずしもネイティブスピーカーのやり方を使う必要はないのではないかと考えます。それよりもいろいろな文化を背景にいろいろな種類の英語が使われるようになってきているのですから、そうした文化の差に敏感になると同時に、その違いに寛容であることが必要になってきているのではないでしょうか?

私は鈴木孝夫氏の国際英語の概念に基本的には賛成です。

もちろん、私も日本人が英語を学ぶモデルとしては、アメリカかイギリスの標準英語を選ぶべきだと思います。発音もなるべくモデルの英語に近づけるように最大限の努力をすべきです。

しかし、アメリカ英語やイギリス英語だけが正しい英語で、他の英語は間違った英語と考え、これを軽蔑することは誤りだと思います。インド英語も、フィリピン英語もアメリカ英語と同じ英語の1つです。私たちは国際社会ではこのような英語も聞きとっていかなければならないのです。最近のリスニング教材にあえて標準的な英語だけでなく、いろいろななまりの入った英語が取り入れられているのもそうした理由からだと思います。

 また、あまりネイティブスピーカーのように話すことにばかりこだわっていると自分の英語にいつまでも自信が持てず、その結果、英語で自己主張することが恐くなってしまいます。「英語は度胸」だと思います。多少ブロークンでも相手にわからせてやろうという意気込みでどんどん自己主張していくことが話す力をつける秘訣だと思います。

鈴木孝夫氏が国際英語として英語を学ぶ方法として薦めている方法に、「日本もの」を使った学習があります。

民族英語として学ぶのであれば、英語を学ぶ教材は英米の文化を背景にしたものでなければならないが、国際英語として英語を学ぶのであれば、何も「英米物」を使う必要はない。日本のことが英語で書いてあるものを使って英語を学んだほうが、効率良い英語学習が可能なのではないか?ということです。

たとえば背景がわからないアメリカのニュースをThe New York Timesで読むことは学習者に英語がわからないことと、背景知識のわからない二重の負担をかけます。しかし、教材にThe Japan Timesを選べば、背景知識がある分だけ学習者は楽に勉強できます。その結果、英語の習得の部分にだけに集中できるので、早く、沢山の英語を吸収できるというのです。

私は国際英語を意識して「日本もの」を使って英語を教えることを実践しています。例えば私は「通訳ガイド」のクラスを教えていますが、ここでは生徒は日本の文化を英語を使って説明することを学びます。

時事英語のクラスで教えるのは日本のニュースが中心です。生徒は身近で起こったニュースを英語ではどう言うのかを学びます。

英語落語のクラスでは桂枝雀が英語にした古典落語や日本を舞台にしたオリジナルの英語落語を生徒は覚え、発表します。

こうした「日本もの」を使った英語学習は、私は英語を身近に感じ、発信型の英語を身につけるのに効果があると思っています。

この点については鈴木孝夫氏が「武器としてのことば」のP188~190で説明しているので、その部分を引用させていただきます。

外国語の上達法の第一は、出来るだけ短い期間に集中して沢山の本を読み、話し、聞き、書くことである。殊に運用能力といった実践的な目標に向かう場合は、外国語に接する密度の高いことが決定的である。

自分にとって内容のよく分からない、難しい外国の思想や、見たこともない事物や現象が頻繁に出てくるような原点を、多大の時間をかけ、まるで暗号文を解読するように読むことは、一般の語学学習としては、最も能率が悪い。

新聞にしてもイギリスのタイムズ紙を苦労して少し読むより、ジャパンタイムズを毎日欠かさず読む方が遥かに英語力がつく。外国の新聞雑誌は、事柄の前後関係や、社会的文脈、彼ら独特の比喩や言及が分かっていないと、初心者には意外に読めないものである。  日本の英字新聞の良い所は、前の日に日本で起こったことが、すぐ英語になって出てくることだ。津波や火山の噴火があれば、次の日にそれが記事になる。あのことを言っているのだなという主題の見当がつく外国語は、内容が分かっている強みで、たとえ二,三の判らない単語があっても、どんどん読んでいける。辞書を引かなくても、知らない言葉のおよその意味を前後関係で察することさえ可能である。

その反対に単語が分からない、文法も自信がない、その上考えたこともない内容、見たこともない外国の事物が語られ扱われているような、本格的や外国語の文章は、言語と内容の両方の難しさが絡み合って、何が何だかわけが分からなくなるのである。

日本ものを教材に使えば、日本人にとって内容は先刻承知であるため、学習努力の殆どは言語に集中できる。どんどん読めるから沢山読む。沢山読むから出来るようになる。出来るようになれば、その段階で外国物を読んでも、今度が語学力がついているから、未知の事項や馴染みのない思想でも、それなりに理解できるようになるのである。

私達の学校では年に2回海外研修をやっています。内容は1週間から10日ほどのクルーズ船のツアーに参加するというのもです。クルーズ船の中はまるで巨大な社交場のようで、劇場、レストラン、カジノ、スポーツジムなどありとあらゆるエンタテーメントがそろっています。

私達の生徒はこうしたエンタテーメントに参加して他の英語を話す乗客と友達になります。ディナーテーブルは生徒を必ず他の乗船客と座るように手配してありますから、彼らは食事の間中テーブルメイトと話しをしなければなりません。

こうした場面で必ず話題にあがるのが、文化の違いです。「私の国ではこうやっている、日本ではどうしているのか」というのを頻繁に聞かれます。そのときに役に立つのが「通訳ガイド」のクラスで勉強した、日本を英語で説明する技術です。勉強しておいてよかったと私は生徒さんに感謝されています。

また英語圏の人が落語がわからないということはありません。世界各地で英語落語の講演が開かれており、とても盛況です。英語版のyahooのentertaimentのカテゴリーにはすでにRAKUGOというセクションがあるほどです。

鈴木孝夫氏は日本伝統の武道である「柔道」を民族英語、オリンピックの種目にもなっている国際スポーツの「ジュードー」を国際英語にたとえています。

柔道がジュードーになってから、体重別のランクに分かれて、別々に勝敗が争われるようになったり、マットの上を逃げ回り動き回る作戦が得点や失点につながるようなった点などをあげて柔道は国際化することでより一般化されたスポーツになったと説明しています。鈴木氏はこれが民族英語が国際英語として使われるようにになってきたことと似ているというのです。

しかし鈴木氏が同時に柔道は国際化して、何もかも日本的でなくなったわけではない、日本固有の格闘技の要素も多くの残っており、この両者を同じものにすぎぬと見るか、もやは別のものと考えるかは人それぞれの立場、考え方に大きくかかわってくることだとも言っています。

日本人はジュードーを日本のお家芸である柔道と同じと考えるのに対し、ロシアやオランダの柔道選手達は日本人ほどジュードーを日本のものとは意識しないというのです。

皆さんは慶応大学の鈴木孝夫氏が「民族英語」と「国際英語」というのを「武器としての言葉」(新潮選書)という中で説明しているのをご存知ですか?

 「民族英語」とは英米二国の文化と伝統に裏うちされた、英米人の所有物としての英語を意味し、 「国際英語」とは異民族がコミュニケーションの為に使う共通語(lingua franca)としての英語を意味します。

彼は「これからの英語教育は「民族英語」よりも「国際英語」という視点をもって行われるべきではないか?」と主張しているのですが、この考え方について皆さんはどうお考えですか?

鈴木氏が提案しているのは、「英米の文化を背景にしない英語を学ぶことは可能なのではないか?」ということなのです。

「英米の文化を背景にしない英語は標準英語ではない、したがって英語学習はイギリスやアメリカを背景にした正統なものを使うべきだ」と考えることもできます。

また「発音や、表現方法はアメリカ英語やイギリス英語をモデルにするのはいいとしても、文化的背景までそっくり真似る必要はないのではないか?私達はアメリカ人やイギリス人のコピーになる為に英語を学んでいるのではない。」と考えることもできます。  

Q.言語が政治的だというほはどういう意味ですか? 

A.私が言語が政治的ではないかといった意味は2つあって

①強者、弱者の関係がどんな言語が使われるかに影響を与える ということと同時に

②自己の言語を普及させ、相手に使わせることにより、自己の影響力を高めようとする

ということをも意味します。

例えば「どの言語が国連公用語に指定されるか」などというのが、2番目の意味での場面にあたります。

どの英語が標準語になるか?」「どの言語が国際語として広く使われるようになるか?」「どの言語が多く学習されるか?」ということは結局、その国の政治力や経済力が大きく反映されます。

現在、世界で最も国力のある国はアメリカです。したがって多くの人はアメリカ英語に合わせようとします。老舗のイギリスとしてはさぞおもしろくないことでしょう。

英語が国際語として定着しているのも、英語圏の国が力を持っているからだと思います。

かつて日本の経済力が強大だったころは、日本語学習のブームが起こりました。現在では日本語より中国語の方が注目されています。

もしも、日本人が会社の社長であれば、アメリカ人の社員は社長の日本人英語を一生懸命理解しようとすると思います。

こうした意味では言語とはきわめて政治的なものと言えるのではないでしょうか?

前回、私が「国際人としてあるべき態度は、いろいろな英語を幅広く認め、尊重していくことではないでしょうか。大切なのは発音や表現方法ではなくその人の話している内容だと思います」と書いたことについて少し説明を加えさせていただきます。

私は「発音や表現方法は適当でいい」と言いたいのではありません。日本人がモデルとして勉強する英語としてはやはり最も広く受け入れられるイギリス英語かアメリカ英語を選ぶべきだと思います。ネイティブスピーカーの発音を聞きそれになるべく近い発音で話せるように努力すべきですし、また正しい表現を正確に覚えて使えるようにしていかなければなりません。それは、こうすることがより多くの人に自分の英語を理解してもらうのに役立つからです。

しかし相手の英語を理解するということに関してはできるだけ寛容であるべきだと思うのです。 現実には世界ではいろいろな英語が使われていて、そのことによって様々なコミュニケーションギャップが生ずる可能性が増えています。その責任を誰が負うのかということが問題です。

たとえばシンガポール人がアメリカ人に英語で話している時に発音や表現方法の違いにより、わからないことが生じたとします。アメリカ英語が標準でシンガポール英語は偽者と考えれば、責任は正しい英語を話さなかったシンガポール人のみにあることになります。

しかし、シンガポール英語も英語の1つだと考えれば、責任は両者にあり、シンガポール人はアメリカ人に理解できるよう説明し、アメリカ人もシンガポール英語を理解しようと努力すべきだということになります。 私は後者の方が健全な考え方ではないかと思うのです。

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