116)16. 英語学習者心理と影響の最近のブログ記事

Q.予告された「3.英語コンプレックスの克服法」を読むのを楽しみにしておる一人なんですが・・・。(^^;;

今、僕の姪はハイティーンなんですが、彼女が言葉を機関銃の銃弾を発射するように使いだした頃、つまり3-5歳の頃のことをよく覚えています。

そりゃ、独演会でして、今日保育園で覚えたり体験したりすることを一生懸命話すわけです。むろん語彙力も表現力も限られているのですが、その早いこと、早いこと、大変なスピードで、話したものです。

ところが、今彼女は非常に人見知りして、口数も少なくなりました。幼い頃の彼女と今の彼女の差に驚くばかりです。 幼い頃は一種の躁状態であるのでしょう。

「耳からはじめる!英会話入門」にも書いてあったようですが、子どもが言葉を覚える過程というか、そこには明らかに、言葉に対する「コンプレックス」がないのであって、そういう状態が上の姪の例でもわかりますように、言葉を使う上でかなり好ましい状態であるとしたら、積極的に英語が口から出ない人を、そういう良い状態にする方法というものは、可能だと思われますか。 
 

A.私は大学では、教育学をメインに、社会心理学、教育心理学、カウンセリング、英語学などを広く浅く学びました。その中でも興味を持って勉強したのが、「人の性格はどのように形成されるか」という点です。

また大学院ではドラマやアクティングの中で「自分の演じる役をどのように作っていくか」という「役の性格分析」をやらされました。

役者はさまざまな性格のキャラクターを演じなければなりませんから「人の性格」ということを深く理解しないと、表面的な役作りに終わってしまう危険があるからです。

性格というのは、もちろん生まれつきのものもあります。しかし同時に成長していく過程で形成されていく部分もあると思うのです。

姪御さんが幼児のころおしゃべりだったのに、今は口数が少なくなったのは成長過程でそうした変化を生んだなんらかの働きかけが外部からあったのだと思います。

人の性格にはいろいろなものが影響を与えますが、家庭環境やどのような社会文化で育ってきたかということが大きいと思います。

そこで「環境が人の性格に与える影響」と「それが言語習得に与える影響」について、私の考える仮説を少し述べてみたいと思います。

カウンセリングの手法の1つに交流分析というのがあります。人はみな自分の中に「子供(Child)」「大人(Adult)」「親(Parent)」という3つの部分を持ちこれを適宜使い分けているというのです。

「子供」は人が生まれながらに持っている天真欄満な部分です。これが出ている時は他人のことなど気にせず自分をどんどん主張し、開放していこうとします。

「大人」は一定のルールにしたがって冷静に何が正しくて、何が悪いのかを判断し、この判断にもとづき行動しようとする部分です。これが出ている時は感情が抑えられ、規範にそった行動がとられます。

「親」は母親が子供をかわいく思い、守ってあげようとする部分です。人に同情したり、動物をかわいがったりする時もこの部分が出てきます。

幼児は基本的には「子供」の部分しか持っていませんから、子供はみな天真爛漫です。幼児向けの番組の歌のおねえさん、おにいさんなどもこの子供の部分が前面に出ています。そうでなければ子供に好かれないでしょう。

姪御さんが、おしゃべりだった時もおそらくこの子供の部分が出ていたのだと思います。 しかし、子供は成長する過程でいろいろなことを習います。

特に母親の影響は絶大です。親は「あれをしてはいけない、こうしなければいけない」と規範を教えていくわけです。こうして幼児の中にも「大人」の部分がだんだん形成されてきます。

親が幼児の言うことを、「うんうんそうだね」「ひろちゃん、すごいね」などと幼児の子供の部分を受け入れていくタイプだと、幼児の「子供」の部分は広がり、天真爛漫な性格になりやすいです。

反面、接し方が子供の言うことにあまり興味を示さず、逆に「そんなことしちゃダメでしょう」と言うようなことが多いと幼児の「子供」の部分は減退し内気な、あまり発言しない性格になる傾向があると思います。

私は言語の習得(言語を自然に学ぶ方法)[英語のインプットのところで説明しました]にはこの「子供」の部分=天真爛漫な部分が必要ではないかと思うのです。

逆に「大人」の部分が強いと、これが言語習得をさまたげてしまうのです。

クラッシェンが言っているmonitor機能(自分の使っている言語が正しいかどうか判断する機能)はこの「大人」の部分を言っているのではないかと私は思うのです。

そしてクラッシェンの言う、情緒フィルター(affective filter)を下げるということは言語学習において「大人」の部分がコントロールしようとする力を抑えてやることではないかと考えます。

もし「言語習得には天真欄満さが必要ではないか」で説明した仮説が正しいとすると、教師は生徒にどのように接すればいいのでしょうか。

もし教師が生徒の英語の間違いをその都度、厳しくチェックしていくと生徒の「大人」の部分が働き、これが自然な言語習得を妨げてしまうことになります。今までの日本の英語教育は、こうした指導が多かったのではないでしょうか。

逆に母親が子供の言うことを受け入れるように、教師が生徒を受け入れていく態度をとれば、生徒の安心感は増し、だんだん「子供」の部分が出てきて開放されていきます。すると英語も入りやすくなるし、流暢に英語も出てくるようになると思います。

新しい教授法である、 Community Language Leaarning, Suggestopedia, Natural Approach などは私が今説明したのと同じ立場にたっています。

Q.英語を効果的に身につけるために、学習者の精神面がとても大切なことは、ご丁寧なご説明で、よく理解できました。

メンタルな面で拘束するものがあると、それが障害になり(大人サイド)、逆に「天真爛漫」だと英語のインプット・アウトプットがスムーズにいく(幼児サイド)だろうことも、卑近な例として僕があげた姪のケースの応用によっても理解できます。

ただ、そういう理解をした上でも、なお納得がいかないのは、例えば、かなりの人が、それも日本人ではなく、他の国の人たち、たとえば自尊心の強いアラブの人とか、韓国や中国の人とかは、別に「天真爛漫」とはとても思えないような人たちが、成人になってから英語を非常にうまくマスターしている現実です。

知人にもそういう人がけっこういるんです。 確かに発音はうまくはないが、彼ら・彼女らが、かなり流暢に、そしてかなり正確に自身の概念を伝える英語をしゃべり・しゃべりつづけることができるというのが、僕の印象です。

 例えば、金大中・韓国大統領ですが、ご存知のように、この方は長くアメリカで留学していたのですが、英語力は相当なレヴェルです。でも、外見を見てのように、またインタビューの内容をたまに雑誌で読むのですが、間違っても「天真爛漫」と言えるようなタイプの御仁ではありません。

いま僕たちがこのスレッドで話していることの応用だけで、彼の英語上達法を判断できないことは承知していますが、彼の「大人」の部分が、つまり僕らの仮説でいうと、「社会的役割」におおいに関係する「恥」とか「体面」とか「過剰意識」とかによって、あまり影響を与えていない、もっと正確に言うと、そうした「大人」の部分が、逆に、金大中氏の英語学習に大いにプラスに働いたのではないのか、という別の仮説をもってしまうのです。

これはかねがね考えていたことなんです。日本人の英語が上達しないのは、「子ども」の率直な、「おおらかな部分」に欠けていることもあるでしょうが、ひょっとしたら、阻害すると見ているその「大人」の部分が、実は、中途半端なのではないのか、その中途半端さが阻害するのであって、もし中途半端でなければ、障害にならないのではないのか、と思えるんです。

このことは、ここのディスカッションでしばしば引用されている「耳からはじめる!英会話入門」の本の中でも、述べられているのですが、もともと英語の劣等意識を持つ理由がないにも関わらず、日本人が英語に対する癒やしがたい劣等感をいだいているという事実から、示唆されるのです。 
 

A.おっしゃる通り、とても天真欄満とは言えないような人達が英語を自分のものとして自由に使えるようになっています。

そこで私が説明したクラッシェンの理論を修正する必要がでてくると思うのです。クラッシェンの理論は、外から学習者を安心させ自由にする手助けをすることによって,言語習得を高めようとするものです。これは学習者の言語コミュニケーション能力を「外から引き出そうとする力」だと思います。

しかし、私は学習者を自由にさせ、言語習得を高めるにはもう1つ「内から押し出す力」が関係していると思うのです。 「内から押し出す力」とはインプットに関しては、外の世界と積極的にかかわって、新しい言語を吸収していこうという力を、アウトプットに関しては、外からの圧力を押し返し、限られた言語能力をせいいっぱい使って自己を主張していこうとする力を意味します。

この「内から押し出す力」が強いか、弱いかによって、英語学習者の言語習得能力や、コミュニケーション能力はかなり違ってくるのではないかと思います。 アラブ人や、韓国人、中国人などが、日本人よりも英語を使えるようになっているのもこの「内から押し出す力」が強いからでないかと思うのです。

「耳からはじめる英会話入門」の中に出てくる大工職人か畳職人風のごま塩頭のおじさんが、片言の英語でまわりの英米人やスチュワーデスとなごやかに話しているのに、後ろの席の大学生はイヤホーンを借りることもできないというのは、この「内から押し出す力」が大学生よりおじさんの方が強いからだと思います。

この本では日本人は英語を話す時「心が萎縮している」と説明していますが、すなわち日本人は「内から押し出す力」が弱まっているということだと思います。

ではなぜ日本人は英語を話す時、心が萎縮してしまうのでしょうか?「萎縮した心」を開放するためにはどうすればよいのでしょうか?

日本人が英語を話す時、心が萎縮してしまう理由にはいろいろなものが考えられます。

まず考えられるのは育ってきた文化の違いです。おっしゃっているように日本人はとても「シャイ」です。私はこれは育ってきた環境がそうさせていると思うのです。

日本人は育つ過程で大切なのは他人との調和であり、自己を主張することではないと教えられています。グループの中で自己を主張すると「目立とう」だと思われる社会です。

これに対し、アメリカや中国などは、自己を主張しないと「あいつは何も意見がないやつだ」と思われる社会です。ジャパニーズ・ブラジリアンが全然シャイじゃないのもブラジルもやはり、自己主張していかなければ生きていけない社会だからなんだろうと想像します。

もちろん日本人でもいろいろなタイプの人がいますから、「耳からはじめる英会話入門」の中で出てくる大工職人風のおじさんみたいに自己主張が強い人もいます。しかし、全体として日本の文化とは自己主張を抑制する文化であるのは事実であり、これが私の言う「内から押し出す力」を弱めているのだと思います。

日本人が英語を話す時に心が萎縮してしまう、もう1つの理由は日本人は他の人にどう思われるかが気になってしかたがないからだと思います。 日本人は英語を話す時に間違えると、他の人に変に思われるのではないかと思っています。だから完璧な英語を話せるようになるまで、黙っていた方が安全だと思ってしまうのです。しかし、これではいくらたっても英語は使えるようになりません。

それから日本人は言葉の間違いや敬語にとても気をつかいます。日本語を話す時に言葉を間違えたり、不適切な敬語を使うと相手に失礼にあたるので英語の時にも間違いや、敬語がとても気になるのです。

こうした意味では、おっしゃっている「日本語が日本人をシャイにしている」というのはあたっていると思います。

では、英語を話す人達は英語の誤りや発音の良し悪しにこだわるのでしょうか?

もちろん人によって差はありますが私は日本人が考えるほど彼らは英語の間違いを気に留めていないと思います。

一般に英語を話す人はネイティブスピーカーでもノンネイティブスピーカーでも英語の間違いや発音のバラエティに対してとても寛容です。それは世界中でいろいろな英語が使われていること、アメリカやイギリスの国内だけでもたくさんの方言が使われていることに由来します。

だからあまり英語の発音や表現の正確さにこだわりすぎるのはとりこし苦労だと思うのです。 どんな英語を話すかということにこだわりすぎることよりも、どんな内容を話せるかにこだわるべきです。

一番悪いのは間違いをおそれて、何も話さないことです。何も発言しないで理解してもらおうなどというのはどだい無理な話しです。「あいつはアホだ」と思われるだけです。

「英語を話す人たちの文化では自己主張しないと認めてもらえない」ということを日本人は知る必要があります。何もいわずに相手が察してくれるのは単一民族、単一言語の日本人同士だからこそできることなんだということを頭においておきましょう。 

「発音や表現の正確さにこだわりすぎるのは得策ではない」と言うと「では日本人英語で良いのか」と聞かれますが、私はそうは思いません。英語を学ぶ時はやはりアメリカ英語やイギリス英語をモデルにして出来る限りモデルに近い発音で正確な表現を覚えるべきだと思います。

こうしていけばだんだん正しい英語を正確に使えるようになり、そのほうが「より多くの人にわかりやすい英語を使えるようになる」という意味で望ましいからです。すなわち「英語のインプットは正確に」するべきなのです。

しかし、間違えることを恐れて英語を使わないのではいつまでたっても英語はできるようになりません。片言の英語でも日本人英語でもかまわないのですからどんどん使っていくべきです。

最初から正しい英語を使わおうなどというのは不可能ですし、言語習得にマイナスです。私達が日本語を覚えてきた時でも最初は間違った日本語を何度も使って、だんだん正しい日本語が使えるようになってきたのです。

他の人にどう思われるかなんてこと気にして英語を使わないでいると英語は一生できるようになりません。すなわち「英語のアウトプットは大胆に」やるのが良いということです。

「発音や表現の正確さにこだわりすぎるのは得策ではない」と言うと「では日本人英語で良いのか」と聞かれますが、私はそうは思いません。英語を学ぶ時はやはりアメリカ英語やイギリス英語をモデルにして出来る限りモデルに近い発音で正確な表現を覚えるべきだと思います。

こうしていけばだんだん正しい英語を正確に使えるようになり、そのほうが「より多くの人にわかりやすい英語を使えるようになる」という意味で望ましいからです。すなわち「英語のインプットは正確に」するべきなのです。

しかし、間違えることを恐れて英語を使わないのではいつまでたっても英語はできるようになりません。片言の英語でも日本人英語でもかまわないのですからどんどん使っていくべきです。

最初から正しい英語を使わおうなどというのは不可能ですし、言語習得にマイナスです。私達が日本語を覚えてきた時でも最初は間違った日本語を何度も使って、だんだん正しい日本語が使えるようになってきたのです。

他の人にどう思われるかなんてこと気にして英語を使わないでいると英語は一生できるようになりません。すなわち「英語のアウトプットは大胆に」やるのが良いということです。

日本人は「内から押しだす力=自己主張」が弱いというお話をしました。私は自己主張ができるようになるには訓練が必要だと思います。

フィニックスではプロジェクトワークIIというクラスがあるのですが、このクラスではこの自己主張ができるようないろいろな特訓をします。

1. 例えば毎回いろいろなトピックで自分の意見を持ちそれを相手に説明することをやります。

2. ディベート形式にして相手が反対意見を述べてきた場合それに関してどう反論するかも学びます。

3. た人前にたって大勢の前でスピーチをすることも学びます。

これらは日本人はほとんど訓練を受けたことがありませんから全般に苦手です。しかし外国の国では学校教育の中で自然に学んでいることなのです。

自己主張の訓練のために、フィニックスが使っている手法としてはディスカッション、ディベート、パブリックスピーキングなどをがあります。

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